古書店主の殴り書き -21ページ目
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『となりのひと』

 三木卓(講談社:絶版)1991年3月初版 【7点】

 杉浦日向子の装丁が、内容としっくりしていて秀逸。横向きに置かれた箸。茶碗の中には水が張られ、赤い金魚が泳いでいる。ページをめくると、神経が張り巡らされたような紋様があり、中表紙には花の芯だけ赤く着色された胡蝶蘭のモノクロ写真。

 この短篇集は、登場人物のほぼ全員が皆、おかしい。社会生活を営む上ではさほど障害にはならぬが、微妙な狂気を発している。1991年に発行されているから、時代の先端を、ひょいとつまみ上げて、目の前に見せてくれているような趣がある。「人格障害モノ」といえばわかりやすいだろうか。

 毎朝、6時に起きて、トーストと日本茶をとり、それから厚切りのヨウカンを一切れ食べる男性(「エレベーター」)。隣の家の壁紙が、自分の家と同じものであることに対して苦情を述べる隣人(「胸」)。荷物を届けた際に、「おや、いったいだれからだろう」と客が言うやいなや、「だれからだなんて、おれにわかるわけないじゃねえか」と怒鳴りつける宅配便の運転手(「笛」)。

 社会と関わり合ってる場面では、一見、普通に見えるが、どこか屈折した感覚のある人々を、著者は巧みに描き出している。

 横須賀線というのに、直通で横須賀へ行くことはできない。(「目」119p)

 7つの短篇が収められているが、いずれもこうした視線に貫かれている。“変な人”は周囲と摩擦を起こしながらも、日常を淡々と生きてゆく。無くて七癖と言われるが、核家族化が進み、一人暮らしの若者が増えれば増えるほど、自分の癖には気づかなくなるものだ。人間がバラバラに引き離され、住まいの内部から家族の視線が消えた時、人格障害が増えてきたのではなかろうか。

 本書のタイトルが『となりのひと』となっているもの示唆的だ。読みながら、「内の隣にも、こんなのがいるかも」なあんてクスクス笑いながら、読み終えた時、隣人から見れば、自分が『となりのひと』であることを思い知らされる。

 文章は淡々として読みやすい。ただ、科白(せりふ)部分の浮いてるような感じが、やや気になった。

『コラテラル』

・監督:マイケル・マン 【9点】
・脚本:スチュアート・ビーティー
・出演:トム・クルーズ、ジェイミー・フォックス

 公式サイトの説明によれば、タイトルの意味は、「間違ったときに間違った場所に居合わせてしまった不運な犠牲者」とある。その点からいえば、主役はジェイミー・フォックスと見るべきだろう。それにしても、適切な邦題をつけることができなかったのは、配給会社の不手際といってよし。

 実に好い作品だった。先に悪口を書いておこう(笑)。音楽がうるさい。余計である。出だしのシーンでは効果的だったが、途中から耳障りになる。もう一つは、ラストシーンがあっさりし過ぎているところ。

 最初の殺しは、香港映画だったか韓国映画だったかのパクリだが、ストーリー上、必要な場面となっているので、これに文句をつけては気の毒。

 物語は静かに静かに幕を開ける。タクシー運転手の決まりきった作業を、アップで撮影することによって、プロフェッショナルであることを巧みに表現している。上空から俯瞰で撮られる映像とのコントラストが鮮やか。

 脚本が完璧。ニヤリとさせられ、クスリと笑わせ、ニンマリとさせる。まるで、ラブストーリーが始まるような、温かみに溢れている。しかし、絶妙な会話も、カメラのアップと俯瞰が示すように、物語の伏線だ。

 殺し屋役のトム・クルーズは、非常に理知的で、説得力に満ちている。脚本は、計算高い殺し屋稼業の本質まで、会話によって示している。タクシー運転手のジェイミー・フォックスが彼の影響を受け、同じ科白(せりふ)を口にするシーンが笑える。

 途中から、やや殺し過ぎのきらいはあるものの、アメリカ映画特有のデタラメさはなく、場面展開の整合性も十分とれている。

 トム・クルーズの言葉は福本伸行作品を思わせる内容だ。自分を取り巻く厳しい現実を指摘された時、コラテラルはコラテラルではなくなった。異なる世界に住む二人が偶然出会い、互いが背負ってきた過去と向き合い、双方に変化が生じる(コヨーテが道路を横切るシーンは、スタインベック著『怒りの葡萄』の亀の挿話に匹敵するほど効果的)。全くもって、私好みのドラマだ。

【余談】

 以下はネタバレにつき、未見の方は読むべからず。





 監督がインタビューで次のように語っている。

 ヴィンセントがマックスを殺さないのは、彼を必要としていたからなんだ。そして一緒に行動することになったマックスをなんとかコントロールしようと、いろいろやってみるんだ。でもマックスは全く聞いていない。そうするとヴィンセントはだんだんイライラしてくる。そしてマックスは時間が経つにつれて気づくんだ。「なんで俺を殺さないんだ」って。その疑問をマックスはヴィンセントにぶつける。この疑問の答えは、ぜひ観客の皆さんにも考えてもらいたいと思うね。そしてその答えというのはヴィンセントの最後のセリフに隠されているんだよ。ヴィンセントが、なぜマックスを必要としていたのか。その謎がこのセリフで解けるはずだ。

 つまり、「地下鉄の中で誰にも知られず、男が死んでいた」という科白に隠されていたのは、「だが、俺の死は、マックス、お前が見届けてくれた」という、殺し屋が最後の最後で、やっと孤独から逃れることのできた友情のメッセージとなる。中々、味な演出だ。

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