古書店主の殴り書き -5ページ目

目撃された人々(11)

 近所に中学があり、夕刻になると数人で連れ立って家路へつく生徒たちを時折、目にする。

 男女とも、とにかくだらしがない。制服はヨレヨレで、革靴のカカトを踏んだまま履き、引き摺るように足を動かしている。頭髪においては何をかいわんや、である。みっともない姿で平然としている彼等に美意識の喪失を思う。

 瞳に輝きがない。挙措(きょそ)に溌剌(はつらつ)さがない。年齢特有の瑞々しさがない。世界を面白がるような好奇心も見えない。そんな彼等にしてしまったのは、我々、大人の責任であろう。彼等から生きる希望を失わせたのは、どこの誰でもなく我々なのだ。

 十有余にして老い、衣食足りて礼節を失う。そんな光景に世の中の悲惨を垣間見た思いがする。ああ、せめて彼等が朗らかに笑える世の中となりますように。

『幻の特装本』

 ジョン・ダニング(早川文庫) 【6点】

 圧倒的な人気を博した『死の蔵書』(早川文庫)の続編である。

 読み終えて私は唸った。「ウ~ン……」。それから「マンダム」と付け加えるべきか否か迷った。前作と比較するとスピード感に欠けるのだ。だが、作者を責めるわけにもゆくまい。出来は悪くないのだが、見劣りするというのが本音だ。著者自身がシリーズ化の落とし穴を一番よく知っていると見える。後書きによれば、年1冊のシリーズ化を要望してきた出版社に対し、ダニングは「主人公や背景が同じ小説を1年に1冊書いていれば、マンネリになるに決まっている(597p)」と断ったそうだ。

 稀覯(きこう)本を奪って逃走した女を捜索している内に次々と殺人が行われる。莫大な資産価値を持つ特装本は、限定版専門の出版社が作ったものだった。存在するはずのない、エドガー・アラン・ポー作『大鴉』は存在するのか? ジェーンウェイが動き出すや否や、過去の忌まわしい事件が明るみに出る。これが大筋。

 出だしは快調である。ジェーンウェイとスレイターのやりとりは小気味好いテンポで奏でられる。逃走したエリノアも魅力的だ。他人に理解してもらえない鬱屈を抱えている様が上手く描かれている。ラストの大立ち回りもサーヴィス満点といってよかろう。

 物語のスピードを減じたのは、稀覯本の説明がやや冗長となっているせいだろう。しかしながら、殺人事件のための動機に説得力を持たせるためには止むを得ないところか。「ふ~む、こういう世界もあるのだな」とは思うものの、やや本末転倒の気配あり。

“書痴”とでも名づける他ない人々が、数冊しか存在しない本を入手するために手練手管を尽くして獲得を興じる。人間の純粋な欲望が狂気によって支えられている様がよくわかる。欲しい物しか眼中になくなり、身を焼き尽くすような衝動が殺人にまで発展する。“欲しい”と“殺す”は背中合わせだ。

 独立したストーリーなので、前作を未読の方はこちらから読まれることをお薦めする。

目撃された人々(10)

 冷たい雨が降っていた。雨の日は長靴に限る。そうでなくても私が履くと似合うと言われるのだ。「ヘルメットも似合いそう」とよく言われる。「耳元に鉛筆なんぞ差していれば完璧ですね」とまで言われる。

 まあ人相風体があまりよくなくて、体格がそれなりにガッチリしていて、態度がでかい人間には長靴が似合うものだ。私の場合は例外で、これらの条件はどれ一つ当てはまらないことを断言しておく。

 人間というのは大事な時になると性根や本性のようなものが現れやすくなる。スポーツを経験した方であれば、よく理解できると思うが、最初っから順調にチームワークなんぞが出来た試しはない。試合前の緊張や不安から、意見の相違や考え方の違い、はたまた口の利き方などが気に障り、ぶつかり合うことは決して珍しいことではない。その向こう側に一歩前進がある。

 私の場合、大事なことがあると極端に気が短くなる。火傷(やけど)しそうになるほど吸い切ったショート・ピースぐらいの短さとなる。更に悪いことは、堪忍袋の緒が細くなることだ。

 大事な用があって私は電車に揺られていた。この日を迎えるまでに私の短気は充分過ぎるほど研ぎ澄まされていた。

 とある駅で男子高校生の4人組が乗り込んできた。ぺちゃくちゃと喋っている内に、おとなしそうな1人がピシャピシャと冗談っぽい様子で叩かれていた。トホホ顔で笑いながら「やめろよー」と言うのだが、2人組の手は止まらない。顔や頭を叩いている手が拳(こぶし)になった。「イジメかな?」とは思ったものの私は静観していた。拳骨(げんこつ)が目に当たった。トホホ顔は真面目な顔つきで「痛ってえなー、やめろよ!」と言った。途端に2人のやり方は、今まで以上にエスカレートした。

 後ろにいた乗客が殴り続ける高校生目掛けておもむろに蹴りを入れた。それも、サッカー選手がフリーキックをするような勢いでだ。「うるせぇーぞ、くぉらぁー!」。4人組は凍りついた。シンと静まり返った電車内で「すいません……」という高校生の小さな声がやけに大きく聞こえた。男は、やり過ぎを反省したように「悪ふざけするんじゃねぇーぞ」と言い残し、長靴姿で去って行った。

 口に平和を唱えながら、激する感情に負けやすい男は胸の内で呟(つぶや)いた。「悪いのは俺ではない、この足だ。この足が勝手に……。まあ、せめて革靴を履いてなかったことに感謝しておこう」。

『大往生』

 永六輔(岩波新書)

 以下、本文より抜粋――

 かつて老衰といえば、長寿の果てにあることで、長寿の親が娘の老衰を見送るということはなかった。泉重千代さんも「100歳を過ぎて子供に死なれたのは辛かった」と言っている。その重千代さんが115歳の時に「どんな女性が好きですか」と聞かれて答えた言葉。

「……年上の女」

「走る階級」

 昔はよく音楽を聴いた。寝る前などは必ずと言って好いほどLPレコードに耳を澄ませたものだ。思春期の多感な生命は、音楽や書物によって信じられないほどの振幅を示した。自分がドラ声のせいか、声の大きな歌い手が好きだ。最近だと、新井英一や伊藤多喜夫。少し前だと、山田晃司(やまだこうし)、ジャック・ナイフのリード・ヴォーカル、和気孝典(わきたかのり)といったところだ。吉川晃司も昔から好きなんだよなー(私は自分より胸囲が大きい人間を無条件で尊敬するという癖がある。因みに私は98センチ)。海外だと、ミック・ジャガー、ボビー・ウーマックなど。当然ながらゴスペル、ブラック・ミュージックを好む。

 そんな私が10代の頃から愛聴しているのがBOROだ。ヒット曲は『大阪で生まれた女』と『ネグレスコ・ホテル』のわずかに2曲。『大阪で生まれた女』は、私の場合、専らショーケンが歌ったモノを聴いていた。ある日、ブラウン管で初めて目にした。直立不動でギターを抱えた姿に「随分、無骨な男だな」という程度の印象しか残らなかった。それから数年後、FM放送で『罪』と『愛』という2枚のアルバムに収められた曲が数日間に亘って紹介されいた。「これだ!」って思ったね。運命を予期させる一瞬の出会いだった。野太い声、黒人顔負けのスキャット。生活の臭いの強い歌詞は貧困と孤独を赤裸々に謳い上げる。また、ある時は、異国の物語風に洒落っ気のあるドラマをスケッチする。ヒットしそうにもないB級感覚がたまらない。恋愛を絵空事の美しさで覆い隠した今時のヒット曲とは、性根の据え方が違う。

 セカンド・アルバム(廃盤:タイトルも判明せず。私が所有しているモノは見本盤)に収められた『走る階級』という歌詞を紹介しよう。

  『走る階級』

 親父はあの朝
 アルミの弁当箱を乗せて
 自転車で町工場へと向かった

 朝の八時になれば
 サイレンがせかす人の暮らしを
 母親は子供たちを外へ追い出した

 太田のお爺ちゃんが
 孫のタカ坊を乳母車に乗せ
 干からびた思い出を語りにくる

 少女はシルクのドレスに包まれて
 それは優雅なもの
 光る妖精のような少女は

 垣根の向こう 芝生の上で今日も走っている
 でも あの子は優雅に走る階級

 ロバのパン屋は
 一日一度広場に来るけど
 ねだれない暮しは知っていた

 泣かずにはいられない
 多くの夜を過ごして
 人は人 夢を持てと教えられた

 それでも毎日が 楽しかったのは
 あの少女のおかげ
 いつも通り過ぎるだけの少女の家

 ある日 少女は シルバー・グレーのジャガーに乗せられて
 俺の前を優雅に走り去った

 俺のいる階級は ただガムシャラに走る階級
 でも あの子は優雅に走る階級


 ミディアム・テンポのナンバーである。出だしのブルース・ハープがもどかしい心情を切々と掻き鳴らす。自立に向かって揺れ動く少年の屈折した情感は、感謝と卑下の間をさまよっていた。憧れと現実、抑えられない思いとそれを抑え付ける社会。金持ちの家の庭に咲いた美しい花を覗き見るような心境だったのだろうか。自分がいる場所からそれは確かに見える。だが、決して手が届かない世界に咲いた花だった。遠くから見るだけで満足しようとする心が、哀しさを一層、際立たせる。夢とは程遠い距離に身を置きながら、少年にとっては黙って生きてゆくことにさえ、必死さを要求された。

 そんな時代が少し前までは確かにあった。生活の不如意などという言葉は飽食の時流によって遠い過去へ流されてしまった。

 曲を聴くとわかるが、卑屈な叫びでありながらも「ガムシャラ」に生きる者の覚悟を、自分自身に言い聞かせる姿勢を感じるのは、少し贔屓(ひいき)が過ぎるであろうか。