古書店主の殴り書き -4ページ目

『「自分で考える」ということ』

 澤瀉久敬[おもだかひさゆき](第三文明レグルス文庫) 【9点】

◎“考える葦”となるために

「馬鹿だった。全くもって俺は馬鹿だった。小倉智昭に『バカヤロー!』と言われても仕方がないほどの馬鹿だった」と一読後思い知る。

 わかりやすい比喩をもって思考回路を解きほぐしてくれる。考えるという行為の道筋が見えて来る。「ああ、考えるとはこういうことなんだ」と諭(さと)すように教えられる。だが、易しい表現の底には自己と相向かう厳しさが剛音を立てて流れている。

 私が生まれた昭和38年に角川文庫版として出版された本である。干支(えと)が三周りした後に読むことと相成り、不思議な巡り合わせを感じる。

 情報化社会はスピードが要求される。古い情報の価値は直ちに色褪せ、新しい情報にとって替わる。政治・経済から流行に至るまでありとあらゆる情報が氾濫している昨今、自分で考えた意見を持つ人が何人いるであろう。あなたが今抱いている政治的意見は、田原総一郎がこの間テレビで話していたものではないか? そのギャグはビートたけしの最新のものではないか? その商品を奨めるのはCMを見て印象に残っていたからではないか? 自分で考えることを放棄した瞬間から“ビッグ・ブラザー”に支配される。

 一昔前に「感性の時代」という言葉がもてはやされた。感性とは感覚によって支えられるが故、享楽に傾きやすくなることは必定である。時代の空気に最も敏感な女子高生を見るがいい。プリクラ、ルーズ・ソックス、茶髪、ミニ・スカート、ブランド品、小汚い色に焼いた肌から、果ては喋り方に至るまで皆一様ではないか。全く何も考えていないに違いない。脳味噌の量が半減しているとしか思えない。例えば若い者がよく読む漫画で何かしらの情報操作を試み、ある感情に訴える主張をさり気なく盛り込めば、一気に広まりゆくと私は思う。感覚的に同じものを指向する有様にファシズムの芽が見える。澤瀉が説く持論は今こそ必要とされるものである。全国のコギャルどもよ、この本を手にせよ! と言いたい。

 澤瀉氏は静かに、しかし、断固たる態度で「考えよ、自分で考えよ!」と言う。丁寧な語り口が、如何なる人にも分かるように、どんな人でもそうしたくなるように、との配慮に満ちている。

 澤瀉氏は言う。

 正しく考えるよりも前に、正しく見ることが必要なのであります。(19p)

 続いて、目的地への交通手段が様々あることを例に挙げ、

 考えるとは可能性を考えるということであります。しかもその可能性というものは、はじめから可能性としてあるのではありません。はじめから可能性としてあってただそれを選べばよいというものではなく、それら多くの可能性は、考え出されてはじめて可能性となるのです。(25p)

 と“何を”考えるのかをハッキリさせてくれる。更に、

 元来、わたくしたちは身体的栄養を摂る場合には、食物を自分で口に入れ、自分で咀嚼し、自分で消化する。これと同じように、あるいはそれ以上に、精神が知識を獲得するためには、自分で精神を働かせ、自分で考えなければなりません。そこには、当然、強い精神、強靱な思索が要求されてまいります。それは決して容易なことではありません。考えるということはなかなかむずかしいことであり、また苦しいことでもあります。(27p)

 と考えるという作業に伴う実感を示す。そして、そこからもう一歩考え続けるよう促し、

 なお、この考えるという行為は、それをたえず行うことによってその力を強めるものであります。からだが訓練によって強化されるのと同じように、精神というのも、それを鍛錬することによって、次第に強力となるものであることを申し上げたいと思います。それに反して怠惰な、怠けた精神は、怠惰なからだにもまして、ますます貧弱なものとなることは申すまでもありません。ともかく考えるためには、〈自分で考える〉ことが絶対に必要であります。(27p)

 とその本質は戦いであることを教えてくれる。

 精神が新しいアイディアを生む場合には全く無からの創造なのであります。いままでそれを考え出す本人にも思いつかなかったものが、精神によって考え出されるのであります。ここに生命の創造にもまさる精神の創造の歓喜があると考えたいのであります。(46p)

 考える醍醐味がここに極まる。

 丁寧に丁寧に聞き手への尊敬を込めて語られる考えるという行為は、単なる机上の思索ではなく、人生を切り開いてゆく智慧そのものと言ってよい。

 ひとは、あるいは思索の無力を説くかもしれません。大切なことは考えることではなく実践することであると主張されるかもしれません。それはそのとおりであります。しかし、実践はそれがただ実践であることによって尊いのではありません。実践は、それが〈より〉よいものへの実践であることによってのみ尊いのであります。そしてその『〈より〉よいもの』とは何かということは、それこそ精神の思索によってのみ明らかとなるのであります。そうして、そのおり大切なことは、〈より〉よいものがはじめからあって、それを精神がただ暗やみから明るみに引き出すのではないということであります。精神そのものが常にみずから〈より〉よきものを創造するのであります。考えるということの尊さ、考えるということの喜び、まさにそのようにしてよりよいもの、〈より〉正しいもの、〈より〉美しいものを創造するというところにあると思うのであります。そして、それこそまさに人間として生きる歓びではないかと私は考えるのであります。(49p)

 考えることが生きることであり、生きることとは考えることなのだと思い至る。妙な飛躍を望むのではなくして、水滴が石を穿(うが)つように徹底して考え抜く行為が、人生の価値を高らしむるのである。それは、弓をキリキリと引き絞る行為に例えられるかも知れない。あらん限りの精神の力をどれだけ込められるかで、放たれた矢の勢いが決まる。慎重を極めた角度でのみ的を射ることが可能になる。

『読書について』に至っては私のアキレス腱を絶たれた感を抱いた。

 本を読むとは、そこに何が書いてあるかを簡単に要約することができるということです。それが言えぬようでは、本を読んだとは申せません。そして、それができるためには、まず、書物全体の構造が整然と分析され、かつてその部分はどのような道すじを通って展開されているかを把むことでなければなりません。(185p)

 これは私の最も不得手とすることで「お前さんのは本を読んだとは言わない」と断言されたようなものだ。思わず膝を正して「申しわけありません!」と声に出してしまった次第。

 更に追い打ちをかけるように

 お寺の鐘は鐘をつく者の力と心に応じて鳴るのであります。(202p)

 と書かれた暁には、「オレの場合、力は漲(みなぎ)っているのだが、爪楊枝で叩いているようなものだな」と全てを見透かされているような気がした。しかしながら、

 ともかく、文字という固い、不動なものをつき貫(ぬ)いて、その奥にある動的な、というよりも燃えていると言ったほうがいいと思われる思想そのものをとらえねばならないのです。もしここでさらに別の比喩をもってまいりますなら、書物を読むとは、火山の上に噴き出しているエネルギーそのものを知ることであります。(189p)

 との一文には震えたね。「そう、それなんだよ、読書の醍醐味は」と。

 考え抜く厳しさが言葉の端々に光っている。

「自分で考える」ことによって、人生は深みを増し、個性は輝き、真の人間として限りなく向上しゆくのであろう。

お得な新生銀行

 銀行や保険屋などは、人のふんどしで相撲をとる仕事なので、私の嫌悪の対象となっている。

 バブルの頃は貸すだけ貸し付けておいて、景気が悪くなるや否や、金の取り立てに狂奔し、随分と泣かされた中小企業も多かった。自ら命を絶つ経営者も珍しくなかったが、自殺を幇助した格好になった銀行員もたくさんいたのではなかろうか。

 私の先輩で、ある都市銀行の支店長代理をしていた人物がいる。その先輩によれば、不況に喘ぐ銀行は、手数料によって利益を出してるそうだ。たまたま、ある銀行で支店長と話す機会があり、問い質してみたところ、「おっしゃる通りなんですよ」と苦笑いしてた。

 と一くさり悪口を書いたところで、新生銀行が素晴らしいサービスを提供しているのでご紹介しておこう。

 個人向け総合口座「パワーフレックス」というのがある。まず驚かされるのは、郵便局やアイワイバンク銀行、全都市銀行などの全国のATMが手数料無料で利用できること。アイワイバンクは、セブンイレブンにATMが設置されている。つまり、郵便貯金よりも便利ということ。

 手数料にも特典があり、他の銀行への振り込みは5回まで手数料無料。新生銀行のATMなら24時間365日引き出し手数料無料。

 更に、通帳のかわりに、取引レポートを毎月届けてくれるなど、充実したサービス内容。

 その他には、海外ATMでも、現地通貨を手数料無料で引き出し可能。円普通預金、円定期預金、外貨普通預金、外貨定期預金、債券、投資信託などが、一つの口座で取り引き可能。

 さきほど発見した情報だが、私は早速、三井住友から乗り換える予定。

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 今日、口座開設の手続きをしに行った。入り口を入って、10数メートル先に警備員が一人。他は誰一人いない。左カウンターにパソコンが並び、中央にはソファ。どこの銀行でも見られる光景とは打って変わっていた。

「直ぐご案内しますので、ソファに座ってお待ち下さい」。洒落た警備員だ。30秒は待たされなかったように思う。若い女性が柔らかい物腰で応対する。やや仕事が甘い印象を受けたが、それを補って余りある誠実さが息づいていた。

 サービス内容は、ネットでも確認できるが、わかりやすく挙げておこう。

 1. 他行宛ての振り込み手数料が無料なのは、ネットに限る(1ヶ月5回まで)。
 2. 郵便局やアイワイバンクから、本人が入金する場合は手数料無料。

 その他はよくわからなかった(笑)。

 要は、他行へ振り込むために新生銀行の口座を用意しておくのが賢明ということ。決済で使用するには、双方が口座を持ってる必要がある。そうすれば、手数料は無料だ。

 雪山堂で買い物をする予定のある方は、是非とも新生銀行口座を開設して頂きたい。いずれにせよ、ネットで買い物をする方には必須であると断言しておこう。

 尚、口座開設に印鑑は必要ない。サインで済ませることが可能だ。入金も不要というビジネスライク振り。

2005-01-26

『静寂の叫び』

 ジェフリー・ディーヴァー(早川書房) 【9点】

 1日半で読み終えた。久方振りの読書は喜ばしいことに快感を伴うものとなった。ラドラム亡き後、ディーヴァーに掛ける期待は大きい。作風は異なるが、極限状況を克服するドラマが与える興奮は同じものだ。ディーヴァーの場合、人質や主人公に身体的な障害を添えることによって、金網デスマッチ的、あるいは引田天功的なスリルが増幅される。

 前にパラリと開いた『監禁』(早川書房)がつまらなかっただけに、本作品は溜飲を下げるほど堪能できた。

 凶悪な3人の脱獄犯が、聾(ろう)学校の教師と生徒達を人質に、閉鎖された食肉工場に立てこもる。FBI危機管理チームの交渉担当者アーサー・ポターが犯人の説得に当たる。

 緻密なプロット巧者のディーヴァーは、人間の知・情・意をものの見事に描き切っている。

 ポターはプロフェッショナルだった。ブリーフィングを終え、一人の警部が人質の無事救出を最優先することを言っておくべきだった、と伝える。

 実はそれは最優先課題ではないんだ、チャーリー。行動原則ははっきりしている。わたしの任務は犯人を投降させること、投降しない場合には、人質救出班が突入し、武力行使によって相手をねじ伏せるのを支援することだ。人質救出に関しては、最大限努力するつもりだ。だからこそ、現場を仕切るのは、HRT(人質救出班)ではなくわたしでなければならないんだ。だが、犯人たちは、手錠を掛けられるか、もしくは死体袋に入らないかぎり、あそこから出ることはできん。そのために、人質を犠牲にしなければならないとなれば、犠牲になってもらうしかないんだ。(73p)

 虚実を盛り込んだ駆け引きは、時に濃厚なやり取りとなり、異様な親密感を与える。ストックホルム症候群と呼ばれる感情移入に陥りながらもポターは知性の限りを尽くして犯人の心を読み解く。

 指揮系統の混乱、マスコミの功名心、事件への政治的思惑が交錯し、交渉は難航を極める。犯人という悪意の存在が、それぞれの心の闇を引き摺り出す。人質となった教育実習生のメラニー・キャロルは、コンプレックスに苛まれ、窓越しに一目見たポターを救世主に見立て、心の中で会話をする。一方、ポターはポターで、作戦ミスの恐怖と戦いつつ、心がメラニーに惹きつけられてゆくことを抑えることができない。

 こうした人物を配した上で、ディーヴァーのペンは、聾者の世界をリアリティーというスパイスで料理してみせる。

 音は体で感じることができる。
 音とは、たんに空気が変動し、それによって生じる振動にすぎない。波のように押しよせてきては、恋人の手のように優しく額に触れる。その刺激的な感触に、人は涙することすらある。
(109p)

 現実から目を背け、心の中に閉じこもり、メラニーはポターと語る。

「わたしたちは、耳が聞こえる人たちを“外の世界の人”と呼ぶの。でも、“外の世界の人”のなかには、わたしたちみたいな人もいるのよ」
「どういう人間たちのことをいうのかね?」
「自分の心に従って生きてる人たちのことよ」
(173p)

 物差しで測れぬ人間性が善悪いずれの領域にもはみ出す。真実と嘘、障害と暴力、愛と欲望――相反する価値を乗せて、物語という列車は最後までフルスピードで疾走する。

北朝鮮拉致家族に思う

 10月15日、北朝鮮によって拉致された5人が帰国した。早いもので、もう20日以上が経つ。これまでのニュースを私は新聞(読売)でしか知り得てない。テレビニュースは全く見ていないので、見当違いな箇所があれば御指摘願いたいことを初めにお断りしておく。

 国交正常化を目指し、北朝鮮側が拉致を認めたものの、8名の方は既に死亡していると伝えられた。この情報を直ちに公開しなかった外務省と、無責任極まる北朝鮮の態度に対して、国民感情は一気に加熱した。

 日本政府はこの問題を20年以上にわたって放置し続けてきた。マスコミもまた然り。そして、あなたと私もまた然りである。私達は、今まで拉致された方々の家族の心情を思いやることなく、自分の好き勝手を行ってきた。そして今、拉致という事実が明るみに出た途端、一端(いっぱし)の意見を述べて、評論家面(づら)してみせるのだ。何という平和な国だろう!

 革新系の政党に至っては、北朝鮮による拉致を認めない発言をして平然と構えていたことも既に報道されている。日本万歳!

 帰国したばかりの記者会見では多くを語らなかった姿が印象的だった。北朝鮮の政治コントロール下に置かれていることはハッキリしていた。その意味では、帰国しても尚、彼等は拉致され続けてきたといえよう。

 それでも新聞の写真で見る彼等の表情は喜びに満ちていた。

 彼等のこうした表情に嘘はなかったことだろう。また、家族との劇的な再会シーンに目をうるませた人々も多かったに違いない。

 以下、読売新聞からいくつかの記事を拾い出してみよう。

【浜本さんの兄・雄幸さん】皆さん、どうもありがとうございます。「迎える時には、どういう感じ(になりそう)ですか」と聞かれましたが、「兄弟8人で明るく迎えてやりたい」と言いました。私の思った通り、肉親のきずなは非常に心強く思いました。すぐにパッとうち解け、富貴恵の笑顔が出てきた。兄弟のきずなが強く結ばれているな、とうれしく思いました。良かった。兄弟8人で迎えたのが本当に良かった。

【地村さんの父・保さん】国民の皆さんに支援をしていただきまして、一時の帰国にしろ、元気な顔を見ることができました。静かに迎えてやろうと思っていましたが、私らより活発に笑い声を出して、かえってこっちが励まされたりするような状態でした。これから、できるだけ朗らかに、笑いを一層深めるように接してやりたいと思っております。

【地村保さん】私が思っていたのとは逆で、「とうちゃん、年の割に元気やな」と言われて、こっちが抱きしめようと思っていたのが、反対に抱きしめられました。


 これらは帰国した直後の記者会見で。

 続いて、曽我ひとみさんが新潟に帰り、父上と再会した記事。これなんぞは、涙なくして読めないものだ。

 めったに着ない背広を身に着けた父は新潟県・佐渡島の自宅の庭に立って、娘の帰りをじっと待っていた。午後4時30分過ぎ。自宅前にバスが横付けされると、出迎えの人の輪からどよめきが上がった。バラやユリの花束を抱えた紺のスーツ姿の曽我ひとみさん(43)が降りてきた。ほおが少し赤くなっている。最初の一歩を踏み出すのをためらっているかのようだ。その視線の先に、70歳の茂さんの姿があった。「来たっちゃ」と父はつぶやいた。
 目を真っ赤にしたひとみさんが歩き出した。茂さんも一歩、二歩とよろけるように前に進む。その足が止まった。
 父は「ご苦労だったな」と言葉をかけた。「父ちゃん待っとった」。娘を抱き寄せた。2人は抱き合い、声を上げて泣いた。「よう来てくれた。ありがとうな」。父の言葉に、娘はしゃくりあげながら、首を振るだけだった。


 そして、町役場でひとみさんが記者会見で読み上げたメモ。

「今、私は夢を見ているようです」。はっきりした日本語だが、たどたどしさも残る。「人々の心、山、川、谷、みな温かく美しく見えます。空も、土地も、木も、わたしにささやく。“おかえりなさい。頑張ってきたね”。だから私もうれしそうに『帰ってきました。ありがとう』と元気に話します」。

 この言葉に嘘はないだろう。北朝鮮がどんな風に彼等をコントロールしようとも、人間としての感情まではコントロールできまい。他国の人間を誘拐同然の手口でもってさらってゆくような国である。あらゆる手を使って彼等をコントロールしたに違いないだろう。彼等が、目の前で同胞が殺される場面を見せられたとしても私は驚かない。いずれにせよ、国家という装置がその意志を行使しようとする時に暴力をためらわないのは、古来、権力の常套手段だ。拉致されていった彼等は、心を死なせるしか生き延びる道はなかったことだろう。その程度の想像力も持ち合わせないで報道するマスコミは唾棄すべき存在でしかない。就中(なかんずく)北朝鮮に対する敵対感情を煽る週刊誌こそ、北朝鮮にさらっていって欲しい最たるものだろう。

 帰国した5人の言葉に込められているのは、やみ難いまでも望郷の念であり、家族に対する思慕であろう。今の日本には、どこを探しても見当たらない感情である。マイホームを手に入れるためとあれば、故郷なんぞはうっちゃって、造成された郊外へすっ飛んでゆくようなのばっかりじゃないのか? はたまた、親は自分のお腹を痛めて生んだ子を殴ったり、蹴ったりし、あまつさえ、熱湯をかけたりするのまでが登場する始末。そこまでしないにせよ、世間体のため、そして、自分の安泰な老後のために、子供を勉強づくめにした挙げ句、自由を奪い取り、親の思いのままにしようとする浅ましい姿は「拉致」そのものではないのか?

 拉致された彼等が20数年振りに帰国し、思いの一端を披瀝した言葉の数々は、忘れていた日本人の感情を呼び覚ました。北朝鮮の思惑はここにおいて見事に外れてしまった。

 日本政府は5人を北朝鮮に返さないことを決定。5人は北朝鮮に置いてきた家族に思いを馳せ、新たな苦悩を抱えることになる。逆拉致ともいえる今回の決定によって、彼等の親が20数年間にわたって苦しみ抜いてきた心情を、今度は彼等が味わうことになった。これを宿命と呼ばずして何と表現すればよいのか。

2002-11-06

 以下のコラムを参照したことを付け加えておく。国見氏のコラムの方が断然、素晴らしい。

国見弥一の銀嶺便り
大西赤人/小説と評論

『童夢』

 ''大友克洋''(双葉社)

■あり得ないリアル

 今では既に古典の感がある作品だ。奥付けを見ると1983年とあるから、私が丁度、二十歳(はたち)の時だ。同じ頃にスティーヴン・キングの『ファイア・スターター(上下)』(新潮文庫)が出たせいか、どこか似た印象を受けたままになっている。友人を家に招いては無理矢理読ませたことが懐かしく思い出される。

 巨大な団地で次々と自殺する人間が現れる。挙げ句の果てには事件を担当する刑事までが自殺をする。ボケ老人と少女。超能力を持つ者同士の対決となる。初めて読んだ時の衝撃は凄まじいものがあった。宝島か何かで紹介されているのを読み、直ぐさま買いに走った。家に帰るなり、3回立て続けに読んだ。やっと理解できた。ストーリー中心の漫画に馴らされていた私は、絵の細部を見落としていたのだ。だから、この漫画は大判で読まれなければならない。

 今、読んでも、血まみれになった団地の廊下や、老人が団地の壁に叩きつけられて壁が陥没するシーンは、凄まじいリアリティをもって迫ってくる。見開き一コマというのは、大友克洋が切り拓いた手法かも知れない。

 細部の厳密さも凄いのだが、視点の縦横無尽さはそれまでに無かったものだろう。空から鳥瞰する絵は過去にもあったが、足元から見上げる絵は見た記憶がない。大友克洋は自由自在に世界を回転させる。

 少女が老人に鉄槌を振り下ろす時、外で遊んでいる子供や、部屋にいる子供達までもが、少女の念力に加担する。童(わらべ)と呼ばれた昔の子供(すなわち老人)のわがまま極まりない夢は、現代っ子の連帯によって葬られる。

 手塚治虫を開祖とすれば、大友克洋が中興の祖と呼ばれる時代がきっと来るはずだ。

-大友克洋データベース