古書店主の殴り書き -2ページ目

目撃された人々(15)

 上京して間もない頃の話だ。私はちょっと困ったことがあって、ある婦人を訪ねた。古い家だった。「どう切り出そうか……」などと思案顔のままで部屋に通された。まだ25歳の頃だったと記憶する。今となっては何を相談に行ったのかすら覚えていない。ただ、少々の緊張と不安とを抱えていたことは鮮やかに覚えている。

 その婦人は当時、私が姉とも母とも頼む人だった。彼女は私の緊張を察したのであろう「コーヒー飲もうか」と言ってくれた。この一言がいまだに忘れられない。田舎者の私は「コーヒー飲む?」と訊かれれば、すかさず「結構です」と答えていただろう。彼女は「内のコーヒーは美味しいんだよ」と言い、私がウンともスンとも言わない内に台所の奥へと消えていった。

 飾らない人柄が誰からも好かれた人だった。とにかく、よく動く人でじっとしていることがない。多忙な中にあって溌剌(はつらつ)と家事に取り組む後ろ姿から、聡明さが伺えた。

「コーヒー飲もうか」――記憶の片隅からいまだに立ち上がってくる一言である。相談事はひょっとしたら、その一言で既に解決していたのかも知れない。

『そして謎は残った』

 ウィリアム・ノースダーフ(文藝春秋) 【7点】

 このあどけない風貌の男の内側で、修羅の炎が燃え盛っていた。

 副題は「伝説の登山家マロリー発見記」。著者に名を連ねるのはヨッヘン・ヘムレブ、ラリー・A・ジョンソン、エリック・R・サイモンスン。この3人がエヴェレストに登り、マロリーを発見したチームの主要人物。

 ニュース性が高い内容だけに、やや面白みに欠けるのは仕方がないだろう。夢枕獏の『神々の山嶺(上下)』(集英社)を読んだ方であれば、手に取らざるを得なくなるはずだ。表紙に配された2枚の写真。マロリーの肖像とエヴェレストにしがみつくような姿勢で真っ白な彫像を思わせる遺体。巻頭の写真をよくよく見ると、地面の傾斜角度は、ほぼ45度。右足首があらぬ方向を向き、完全に折れてしまっている。

 各章の頭にマロリーの言葉が掲げられている。

 打ち負かされて降りてくる自分の姿など、とても想像できない……

 それがどんなに私の心をとらえているか、とうてい説明しきれない……

 大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エヴェレストの山頂が現われた

 もう一度、そしてこれが最後――そういう覚悟で、私たちはロンブク氷河を上へ上へ前進していく。待っているものは勝利か、それとも決定的敗北か


 マロリーの人とナリが窺えて興味深い。

 エヴェレストの山頂がエドマンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによって制覇されたのは1953年5月。これに先立つこと約30年、1924年にジョージ・マロリーは山頂近くでその姿を確認されたまま行方不明となった。当時の写真を見て驚かされるのはその服装である。ツイード・ジャケットにゲートルを巻いた程度の軽装で、現在であれば、富士山にも登れないような格好をしているのだ。世界で最も天に近い地を踏んでみせる!――男達の顔はそんな不敵な匂いを放っている。

「マロリーは登頂に成功したのか否か?」という最大の関心事には、遺体があった位置などから、かなり真実性を帯びた推測がなされている。これは読んでのお楽しみ。

「なぜ、山に登るのか?」
「そこに山があるからだ」

 実はこれ、意訳。正確にはこうだ。

「なぜ、エヴェレストに登るのか?」(記者からのしつこい質問)
「そこに、それ(人類未踏の最高峰)があるからだ」

 この名言を吐いた男の亡き骸は、発見されるまでの75年間にわたって、山頂を目指していた姿だ。最後の最後まで戦い続けた男の執念は、死にゆくその瞬間まで絶対にあきらめようとしなかった。エヴェレスト北面8160mで彼は死後も戦い続けていたのだ。滑落姿勢を保ち、エヴェレストの大地に指の爪を立てたままで――。「生きるとはこういうことだ! 私を見よ!」。マロリーの死に様は、生ある全ての人の背筋を正さずにはおかない。この姿を一度(ひとたび)見れば、誰もが生き方を変えざるを得なくなるはずだ。

 それは単なる遺体ではなく、不屈の魂そのものだった。マロリーの精神は、エヴェレストの山頂よりも遥かな高みから、山男たちを見守っていることだろう。

写真 【下の方にある】

『アイ・アム・デビッド』

 監督・脚本:ポール・フェイグ 【7点】
 原作:アン・ホルム
 出演:ベン・ティバー/ジム・カヴィーゼル
 音楽:スチュワート・コープランド
 原作:アン・ホルム

『アイ・アム・デビッド』を見た。上映館がこれほど少ないのは、どうしてなんだろう? 都内でも、新宿1ヶ所でしか上映してない。

 強制収容所で育った12歳の少年・デビッドが脱走を図り、一路、デンマークへと向かう旅。予告編を見た時、私はナチスの強制収容所だとばかり思い込んでいた。ところが実際は、共産主義国家による強制収容所だった。第二次世界大戦の直後のブルガリアがその舞台。

 例の如く、先に難点を挙げておこう。まず、効果音が大き過ぎる。これは見る者に緊張感を与える狙いがあるのだろうが、単なる虚仮(こけ)脅しに感じてしまう。ストーリーの方は、都合よく主人公を助ける人々が次々と現れ、旅の困難さが描けてない。そして、致命的なのはラストシーン。妙に冷静な演技が、「アイ・アム・デビッド」という最後の台詞を台無しにしてくれる。

 強制収容所のシーンがいい。予告編で私が惹かれたのも、黒を強調したシャープなこの映像だった。旅の途中でカットバックが挿入されのもグッドアイデア。地獄の中にあっては、ほんの少しの優しさを示すだけでも、殺される羽目になる。しかし、地獄にも正義は存在した。

 デンマークといえば、グルントヴィと、その弟子コルによって創設された国民高等学校が知られている。その成果であろうか、ナチスの風がヨーロッパになびいた時も、デンマークでは数多くのユダヤ人が迫害から守られた

 映画では、なぜ、デンマークへ向かうのかが知らされない。そして、物語には、一つの伏線があった。これには、吃驚(びっくり)仰天! 思わず、「そうだったのか!」と膝を打ち、身を乗り出したほど。

 物心がついた時から強制収容所で育った少年は、笑顔すら失っていた。デンマークへの逃亡の最中(さなか)、幾度となく、「誰も信用してはいけない」とのアドバイスが蘇る。だが、デビッドは、抗(あらが)い難い人間愛を知り、遂に心を開く。幸福への扉は一気に開き、常に思い詰めた表情をしていたデビッドの頬を喜びの涙が伝う。

 上映前に何度も流れていた歌が最後を飾る。やや、甘いバラードと思いきや、この物語に打ってつけの歌詞だった。

 悪夢のような時代の中で、一人の少年を助けるために差し出された数本の手は、人間の善性を証明する一筋の光に他ならない。

【※Yahoo!ムービーのユーザーレビューによると、ラストシーンで流れる歌は、デンマーク出身のdamian riceというアーティストの作品らしい】

ライブドア叩き

 叩くのは、母さんのお肩だけにしてもらいたい。そんな思いにさせられるほど、昨今のライブドア社に対するバッシングは酷い。数日前から、まるで誰かがゴーサインを出したかのように、メディアが攻撃を始め、政治家が批判を加え、経済界から苦言が続出した。

 私は証券業界についての知識はからっきしだが、今回の問題は、ライブドア社の“お行儀が悪かった”という程度のものではないか? 現行法に抵触してないというのだから、これほど騒ぐ必要はないはずだ。

 民主党の岡田代表は、22日の記者会見で、

「(現行法の)ルールに基づいて行われたことに、立法者の政治家が批判するのは見識がない」

 と批判。“野党”を“政権準備党”と言い換えることを提唱するおめでたい政治家であってもわかる問題なのだ。

 ってなわけで、私は心情的に堀江社長を応援したい。経済界に一石を投じる若武者に拍手を送りたい気分だ。

 人相のよくないフジテレビの会長は、「今時の若いのはなってない」が口癖になっているその辺の親父連中と変わりがない。旧態依然とした世界にどっぷりと浸(つ)かっているただの老人だ。

 日本経団連の奥田碩会長(トヨタ自動車会長)は、

「変な本を書き過ぎた。金さえあれば何でもできるというのは日本の社会としてはまずい」

 と御託をのたまわった。これなんぞは、「内の村の掟に従わなければ、いつでも村八分にしてやるぞ」と脅しているのと一緒。大体、「変な本を書き過ぎた」とのことだが、何冊読んだかすら明言してないのだ。

 奥田会長は、堀江社長にケチをつける前に、自社の心配をした方がよくはないか? 以下、日経記事――

◎トヨタ50億円申告漏れ、20億円追徴課税

 トヨタ自動車(愛知県豊田市)が名古屋国税局の税務調査を受け、2002年3月期までの2年間で約50億円の申告漏れを指摘されていたことが8日、分かった。このうち約10億円は海外の子会社に支払う販売促進費を水増しするなどしていたとみられる。同国税局は子会社への「利益移転」にあたるとして重加算税を含め約20億円を追徴課税(更正処分)したもようだ。
 関係者によると、トヨタ自動車はシンガポールの子会社「トヨタ・モーター・アジア・パシフィック」に販売促進業務を委託している。同国税局はトヨタ自動車が支払った委託料が実際の業務内容と比べて多く、経費の水増しにあたると判断。子会社への資金支援のための「利益移転」にあたると認定したもようだ。
 2003-10-08

 また、トヨタは、郵政事業参入の噂が囁かれているので、自民党に尻尾を振っておこうって魂胆なのかも。

 21日の「きょうの出来事」(日本テレビ)では、小栗泉という女性キャスターは堀江社長に対し、失礼千万な質問を繰り返し、挙句の果てには堀江氏が答えている途中でCMを入れるという手の込みようだった。ま、誰かが書いた台本通りに仕事をしているだけの馬鹿女だろう。さながら、イジメに便乗する外野の如し。

 毎日新聞(2005-02-21付)では、「風雲児の新聞観について」と題して、山田孝男という記者が一文を掲載。

 野球と株に疎く、今までぼんやり眺めてきた私だが、彼が新聞を語りだしたことで見えてきたものがある。メディア業界の旧弊を突く彼の批判は鋭いが、自己膨張以外に行動規範がなく、適法なら何でもやるという彼の流儀に屈するわけには断じていかないということである。

 更に、この後、こんな風に書いている。

 新聞はしばしば独善に陥るが、だから記者が公益を探る営みは無意味だというような極論を受けいれるわけにはいかない。

 そして、戦後、ヤミ金融「光クラブ」を経営していた東大生の言葉を引用して、堀江社長に擬して、締め括られている。

 この記者は、完全な被害妄想だと言っておこう。「ぼんやり眺めて」「見えてきたもの」と出だしを曖昧にし、最初(はな)っからへっぴり腰。普通は、ぼんやり眺めて見えるものは、ぼんやりした姿にしかならないよ(笑)。

 ところが、自分の仕事(新聞記者)に対して批判されるや否や、彼の態度は豹変する。この記者は狡賢い人物だ。堀江社長のことは、最初に持ち上げてから(「彼の批判は鋭い」)、根拠を示さずして「自己膨張以外に行動規範がなく」と断罪してみせる。ところが、新聞記者の仕事に関しては、「しばしば独善に陥るが」と、先にへりくだってみせ、その後、胸をそっくり返して威張ってみせるのだ。

 タイトルの「風雲児」という言葉も、堀江氏を持ち上げているような印象を与えながら、自殺した「光クラブ」の社長(しかも、東大卒)にダブらせようとするのが記者の狙いだ。

 堀江氏は、この一文を読んですらいないことだろう。山田記者の滅茶苦茶な記事は、所詮、会社に飼い馴らされたサラリーマンの負け犬の遠吠えにしか聞こえない。

目撃された人々(14)

 電車内には礼節や親切は存在しない。ここんところ電車に乗る機会が多いのだが、そのように結論に至った。

 まず、混雑している車内から降りようとドアに向かって進む際に「あの、すみません」とか「ちょっと、よござんすか」などと行った野郎を見たことないもんね。俺はちゃあんと言うよ。声がデカイからね、皆、サッと開けてくれるよ。

 座席に座っている若造なんかは、目の前に年寄りが来たら、寝た振りしてんだよな。全く頭に来る話だよ。で、いくつか駅を過ぎると薄目を開けて年寄りがまだいることを確認したりしてやがるんだよ。「バアサン、その野郎の膝小僧の上に座ってやんなよ」って、よっぽど言ってやろうかと思ったぜ。

 で、本題。人間観察に長(た)けている私が電車という舞台をみすみす見逃すはずがない。そこで空いてる座席に腰掛けるパターンを分析してみた。

 まず、一番多いのは、ゆっくりと腰を下ろし、静かに背中を押し付け、ちょこっと肩を揺すぶりながら定位置を確保するやり方だ。まあ、人が座ろうとしているのに、身体を寄せて譲るような精神の持ち主は東京じゃどこにもいないからね。

 次に、これはお年寄りに多く見られるタイプだが、座席に浅く腰を掛ける人。最近はやたらと図体だけデカイ若造がいるから、遠慮がちに座る上品な人々である。

 そして最後に、いけ好かないオヤジ連中の1割を占めるであろう倣岸不遜な輩である。コイツらは座席の前に立ったかと思うと、いきなりドォーーーンって感じで座り込んじゃう。いかり肩を両隣の客にショルダー・アタックのようにかましておいて、「あ、すみませんねー」と全く悪びれる風もなく、しっかりと余裕のポジションを獲得するというやり方だ。

 私の場合はどれにも当てはまらない。静かに座り、隣の客と肩がぶつかると、舌打ちをし、黙ってそいつを睨(にら)みつけてやるのだ。こうすれば大半の客は少し身体を寄せてくれる。それでも譲らない馬鹿オヤジであれば、思いっきり肩を押し付け、75kgの体重でプレッシャーを与え続ける。

 それとだ、以前から気になって仕方がなかったのだが、日本人はどうして端っこが好きなのかね~? これは昔、とある食堂で働く中国系の店員も語っていた。電車内でも、よく見受けられる。座っているクセしやがって、パッと端っこに移動するのがいるでしょ? ありゃあ一体全体何なんでしょうね~? 見知らぬ人と触れ合うのが嫌でしょうがないのかな? せめて片一方だけにして欲しいという潔癖性の現れかも知れない。