古書店主の殴り書き
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先立つ不幸をお許し下さい

 なんて大袈裟なもんじゃありませんが、チト、使い勝手が悪くなったので、しばらく更新を休みます。

 

 本拠地は適当に更新します。

 

 雪山堂:殴り書きwiki:http://sessendo.8oji.net/pukiwiki/index.php

 

『初秋』

 ロバート・B・パーカー:菊池光訳(早川文庫) 【8.5点】

 

生きざまで語るタフな探偵

 

 教育の原風景ともいうべきドラマが描かれている。主人公スペンサーは少年ポールが自立するために、全人格でぶつかり、自らの武器とするもので勝負をかける。自分にできることを通して、人生に対する考え方・態度を教えるスペンサーの姿勢は、口先だけで自分ができなかったことまで押し付けようとする昨今の教育パパやママ連中とは大違いだ。

 

 まず気がつくことは、愚劣な両親に育てられ、判断力・感情を失いつつあるポールに対し、スペンサーが一個の人格として遇する姿勢を崩さない点だ。返事もせず肩をすぼめて見せるポールに苛立ちを覚えながらも、安直な評価は下さない。スペンサーの発言は、教える側からの教育的な効果を狙ったものではなく、強烈な自負心がそのまま饒舌な言葉となって吐き出されたものだ。根拠・理由・動機を、ある時はユーモアたっぷりと、またある時はロマンチックに表現する。豊かな言葉は精神性の現れであろう。

 物事に対する考え方の問題だ。(31p)

 正当性に関連した事柄だ。(43p)

 生命の神聖さに関係した事柄だ。(93p)

 圧倒的な自信に裏打ちされた豊かな表現は、哲学的な響きを伴って胸に刺さる。

 

 母親からポールを預かったスペンサーは、二人の力で家を建てようとする。大工仕事を教え、ジョギングを教え、ウェイト・リフティング、ボクシングを教える。ポールの若い肢体にしなやかな筋肉がつき始めるのと同時に、自立の心が芽生え出す。スペンサーによって、それまで歩んで来たのとは全く別のポールの人生が始まる。ポールはやっと自分の人生を取り戻したのだ。

 

 ある日、母親がやって来て身勝手にも別れた夫の手元にポールを追い遣ろうとする。

 

「帰りたいか」スペンサーの問いかけにポールは答える、「いやだ」と。ブラボー! 私は思わず快哉を叫んでしまった。その昔、白人にバスの座席を譲るよう強制され「ノー」と静かに、断固たる信念で答えたローザ・パークス女史を思い重ねた。主体的な生き方は、日常の中で自分を隷属させる権威に向かって「ノー」と叫んだ時から始まる。

 

 がんじがらめになった妥協の戒めを解き、拘束し続けた迎合の枷(かせ)を外し、締め付けていた無気力のヘルメットを脱いだポールは、「バレー」という夢に向かって走り出す。後のシリーズで柔軟にして逞しい青年となって度々登場するポールは本作品で蘇生の劇を開始する。

 

 スペンサーとホークの間柄は「絆」という言葉でしか表現でき得ない強靭さに満ちている。友情というよりは尊敬と信頼。独立自尊の孤なる魂の共振に、西洋のアイデンティティが垣間見える。

 

 ホークがハリイを撃ち殺すシーンなどは、三国志の玄徳と曹操さながらだ。理想と現実、寛容と冷徹、優柔と果断。この対照が双方の個性を際立つものとし、甲乙つけ難い魅力を放っている。近作では老いた感のあるスペンサーだが、ホークの方は相変わらず拳銃のように黒光りしている。

 

 自立の人生の旅立ちは正に『初秋』の季節を思わせる。冷たい風。やがて訪れるであろう吹雪に向かって、自分の足で一歩前に踏み出さねばならない。自分の意思と力で。それは孤独な行為だ。しかし、ポールの肩に回されたスペンサーの腕は温かい。

 

『アメリ』

・監督:ジャン=ピエール・ジュネ 【9点】
・主演:オドレイ・トトゥ

 以前から、気になっていた『アメリ』をやっとビデオで見た。私は基本的に、人がバタバタと死ぬ映画が好みなんで、この手の作品にはあまり食指が動かないのだ。

 いやあ、もっと早くみておきゃよかった。こいつあ、傑作だ!


 私は、ハーヴェイ・カイテルは好きだが、『スモーク』という作品は嫌いだ。一方、オドレイ・トトゥは好みでないが、『アメリ』は大好きだ。


 アレクサンドル・デュマの芝居じみた展開を、リアルな映像で表現したような趣がある。芝居じみた手法でハリウッドは失敗しているが、『アメリ』は見事なまでに成功している。その上、ミステリアスな伏線まで用意しているのだから、フランス映画恐るべし。


 日本人であれば、『レオン』のマチルダは可愛いと思っても、オドレイ・トトゥの顔には、身を強張らせるような何かがある。しかしながら、青磁を思わせる肌と白目はこの上なく美しい。ワカメちゃんと同じオカッパ頭は私好み。そして何よりも、少女と大人の間(はざま)を揺れる演技がお見事。笑うと別人の如くチャーミングになる。


 どこを取っても、フランスの洒落っ気が楽しい。アメリは「境界性人格障害」と思われるが、よくもまあ、ここまでカラッとしたポップな映像に収めたものだ。


 細部の描き方が秀逸。登場人物の「好きなもの」と「嫌いなもの」は文学的ですらある。人間の癖を前面に出すことによって、愛すべき人物のリアリティが増している。


 アメリは主人公でありながら、トリックスターでもある。アメリが、一滴(ひとしずく)のエッセンスを振りまくと幸福が生まれ、怒りのスパイスを加えられた人は不幸になる。社会と折り合いをつけることのできないアメリを取り巻く人々も、やはり社会から阻害されている。だが、この上ない親愛の情が、アメリに勇気を与える。淡い恋心は、互いを労(いた)わるような優しいキスとなって実を結ぶ。

『癒し系映画「アメリ」への疑問』に書かれている批判は見当違いも甚だしい。雑誌『プレジデント』なんぞに絡んでいるような手合いにとっては、“社会的な成功”しか幸福の数に入らないのだろう。


『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ドッグヴィル』とは全く正反対の意味で傑作だ。私は立て続けに二度も見てしまった。閉ざされた少女の心をすくい取り、乙女の小さな夢を巧みに描いて秀逸。映像と効果音も比類のないものだ。

もったいない

 時代が飽食と呼ばれ久しく時を経たある頃、清貧と名の付いた本がベストセラーになった。「もったいない」と言う人が少なくなったと嘆く声をよく耳にしたものだ。環境問題に関心の高い人は、割り箸なんかに「もったいない」と思うんでしょうね。貴重な森林資源を一食のために使い捨てるとは不届き千万、えーい、斬り捨ててくれるわ! などと正義の怒りに震えながら、たぬきうどんを啜(すす)るのかしら。

「もったいない」との感覚は、もちろん、人それぞれで、育った環境によるところが大きいと思う。私の父なんぞは、蛍光灯を2本点(つ)けただけで「もったいないことをするな!」とドラ声を張り上げていた。そんなわけで、どうもこまめに照明を消す癖がついてしまい、チョット気恥ずかしい。

 若い時分は悪友が「フン、あんな女とは別れてしまったぜ」と言うのを聞く度に「ウワアもったいない! 俺にくれれば良かったのにー」と悔しさのあまりハンカチをキリリと噛んだものだ。

 田舎者の私は、駅前でポケット・ティッシュをもらう度に、なぜかお辞儀をしてしまう。「フン!」と無視して歩き去る都会人を目の当たりにした時は「ウッヒョーッ、もったいない! なぜ受け取らないんだ? あ、ティッシュ・メーカーに勤務しているのか」と理解に努めようとしたが、それにしてはティッシュ・メーカーに勤務する人が多過ぎた。私は手渡されるとどうしても感謝の念が先立ち、恭(うやうや)しく頂戴してしまうのだ。ポケット・ティッシュ巡礼行脚(あんぎゃ)の過去最高記録としては、1日で14個、獲得したことがある。合掌──。

 なんでもかんでも「もったいない」と言うわけではない。東海村で起こった臨界事故を見て「わーっ、あんなに放射能が漏れてしまってるー、もったいない」とは誰も思わないだろう。価値を感じるものにしか使わない。それが使われなくなった背景には、“モノそのものから便利さ”への価値転換があったと見るべきだろう。私が子供時分には、デパート包装紙などはどこの家でも、綺麗に剥(は)がして取っておいたものだ。そんなことを思い返していると隔世の感がある。

 ほなら、なぜすべてのものに“霊”があるんだというとらえ方をしたのかていうと、昔はいまのように豊かな時代ではないですから、物を大事にしなければならない。それを教えるには理屈でいうよりも、恐怖とともに教え込むほうが簡単だったんでしょうね。
 その点、現代の車文化なんかを見てますと、1台何百万円もする車が2年とか3年で廃車にされている。これ、昔みたいに車にも霊があるというふうに考えていくと、とてもそんなことは怖くてできないですね。ですから、使い捨て文化というのは、霊というものが存在しないというのを確認したところで成り立っておるわけですね。
(135p)
【『落語的学問のすすめ』桂文珍著(新潮文庫)】

 関西大学の非常勤講師となった文珍の講義を編んだ快作。そうすると、私たちはモノと一緒に霊まで捨ててしまったのかも知れない。眼に映るものしか信じられない価値観が、大量のゴミと悪臭をもたらし、眼には見えない人の心や生命すら粗末に扱う結果を招いたのだろうか? 一寸の虫に五分の魂は、もう存在しない。

知的障害者に、1000万円近くの化粧品を販売

 約70年分の化粧品と約9年分の健康茶を買わされたとして、知的障害のある女性が化粧品販売会社と販売員に代金の返還などを求めた訴訟で、静岡地裁浜松支部は10日、請求をほぼ全面的に認め、約870万円の支払いを命じる判決を言い渡した。千川原則雄裁判官は「到底消費できないほど大量の商品を購入させたもので、原告の判断力の不足に付け込んだ違法な行為」と指摘した。

 判決によると、被告となった広島県廿日市市の化粧品販売会社「ファインナック」は静岡県浜松市内のパート勤務の女性(55)を電話勧誘し、03年1~3月に段ボール約100箱分の化粧品や健康茶(総額915万3465円)を購入させた。化粧品などは女性の部屋にそのまま積み上げられて自由に出入りできなくなるほどだったが、同社は引き取りも拒否していた。【葛西大博】

【毎日新聞 2005年3月10日 21時31分】
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